Naz-naz

やさしいまほうのつかいかた。

言葉はナマモノ。

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例えば、空は青い。
海も青い。
じゃあ、どうして同じ青なのに空と海は混じらないの?
ガラスは透明。色がない。
でもそれは空や海を色づけて見せてくれる。
透明はどんな色?
 
まるで子供になったかのように世界をみると、思った以上に自分が世界を見ていないことを感じる。
そう考えるのはちょっとネガティブだけど、それ以上に、人は感覚の中に生きているのだと私は思う。
 
言葉にすると、それがまるで答えのように感じてしまう。
みんなが素直にその言葉を受け入れれば交通事故にはあわないのだけど、全部がうまくいくわけでもないということ。
というのも、言葉というものは、自分の感覚と同じように解釈してもらえないときがある。

「僕が見たのはもっと赤いんだ」
「りんごみたいな?」
「いや、でも庭のバラよりはピンクかもしれない」
「もう赤ならそれでよくないか?」

 
言葉にするというのは、自分の中のものを見せるという作業。そこにはタイムラグがある。寄り道したり、勝手にゴールにされてしまったり。文字にするという作業を入れると更に難しくなる。出しているうちに落ち着くこともあれば、どんどんムカついたり悲しくなることもある。
 
言葉にすると消えてしまうもの、なーんだ。
 
人は「自分の見てる世界を教えたい」という欲望があるのだと思う。
喋ったり、書いたり、創ったりする本質は、そこに隠れているということだ。

たくさんたくさん出したとしても、本当のところは煙のように消えていくものだから、諦める人もいるんだと思う。「もう赤ならそれでよくないか?」と言ってしまう。
それに、心の感じ方ってずっと動いてる。

本質は変わらないのに、昨日と今日で表現を変えて困らせた経験がある。
理解してもらうのも時間かかりそうだし、伝えようと言葉を重ねるほど遠くなる。外部ツールってやっぱり有能じゃない。
それでも、諦めずに残したい、伝えたいと思うから、芸術って素晴らしいなって思うのです。

結局のところ、人は伝えることにはまだ未熟だし、それを理解することにも未熟。
そして、「自分の見てる世界を教えたい」をまだ諦めてはいないんだと思う。