Naz-naz

やさしいまほうのつかいかた。

やさしい心配のお話。

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誰かを心配したことはありますか?
家族のこと、友達のこと、恋人のこと。
そのとき、どういう気持ちでいたか覚えていますか?
質問を変えますね。
心配をするとき、「心配」がくっついた別の行為をしていませんでしたか?

実をいうと、私は心配されることがそんなに好きではありません。
それをやってはいけないと言われてるような気がして、とても自由がないような気持ちになるからです。これは私自身の心配に対して考えてしまうひとつのクセです。
逆に心配されることを必要とする人もいます。
心配されることで愛されていると実感したり、孤独でないことを知ったり、やる気に変える人もいるのです。
挙げたのはほんの一部で、「心配」という言葉には多くの要素が含まれているのです。

誰かを心配したとき、怒ったことがあるかもしれません。
怒るという行為が、心配から来るものと言ったらイメージしやすいですよね。
誰かを心配したとき、反対したことがあるかもしれません。
ただ危ないと言うことは、実はその人を否定することと同じ。
悲しみに暮れるほどの心配で、相手の行動を迷わせてしまうこともあるでしょう。

ここで分かることがひとつ。心配されることを必要とする人もしない人も、心配をする側の人でさえも共通して持っている「認めて欲しい」という気持ち。
心配する人は、きっと悲しませないで欲しいという想いが隠れているだけ。
心配されたい人は、きっと独りじゃないと教えて欲しいだけ。
心配されたくない人は、きっと自分を信じて欲しいだけ。
みんなそれぞれの想いを認めて欲しいだけ。

だから、どんなときでも無事であることを信じてあげて。
そうであるように、幸せでいられるように祈ってあげて下さい。
そして心配してくれる人がいることはとても特別なこと。
素直にありがとうと言えるあなたであって下さい。


ほんのちょっとの愛と思いやり。
今日は心配を愛に変える魔法のお話でした。